思いつくままダラダラと
2001年6月4日今日、帰りに一緒にヨシギューで打ち上げしたかっきーがふと洩らしたコトがとっても今、深く深く心に突き刺さっている。一言一句違わず思い出すことはできないのだけれど、言い得て妙、なところがあって、ずっと気に掛けて帰ってきた。
そして帰り道、お風呂の中でそれを自分なりに反芻してみた。
いわゆる青い時期が一段落した後で、落ち着いた気持ちで「あたし」とか「あたしたち」とかを形成する年齢ってあると思うのだが、その時に一緒にいる(いた)人とは同じ(似たような、も含む)環境で見たり、聞いたり、感じたりするから嗜好性が似てくるんじゃないかな、と。もちろん、それまでに形成されたパーソナリティというものは当然あるのだけれど、いわば骨組みは固まって、あとは細かいニュアンスを出すための装飾みたいな部分、という意味での嗜好性。
だから、要するにそれができあがってしまった人同士だと、お互いに譲れない確固たる(大げさかもしれないけど)信条とかこだわりとかがある程度できてしまっていて、それについて干渉されるとひどく自分の領域を侵害されたような気がするのではないかと思う。
決して、目ぇひん剥いて反論するわけじゃないんだけど、なぜか気分を害してしまうような。だけど、そうかといってお互いに妥協(というか協調)するわけでもなく、それぞれが「それをしたいならすればいいし、悪いとは思わない」みたいに妙に世界観を守ってあげたいふうに言っちゃって、でも、それなのに、わだかまりが何だか残ってしまうような気持ち。
分かってもらえますかねぇ?
そして帰り道、お風呂の中でそれを自分なりに反芻してみた。
いわゆる青い時期が一段落した後で、落ち着いた気持ちで「あたし」とか「あたしたち」とかを形成する年齢ってあると思うのだが、その時に一緒にいる(いた)人とは同じ(似たような、も含む)環境で見たり、聞いたり、感じたりするから嗜好性が似てくるんじゃないかな、と。もちろん、それまでに形成されたパーソナリティというものは当然あるのだけれど、いわば骨組みは固まって、あとは細かいニュアンスを出すための装飾みたいな部分、という意味での嗜好性。
だから、要するにそれができあがってしまった人同士だと、お互いに譲れない確固たる(大げさかもしれないけど)信条とかこだわりとかがある程度できてしまっていて、それについて干渉されるとひどく自分の領域を侵害されたような気がするのではないかと思う。
決して、目ぇひん剥いて反論するわけじゃないんだけど、なぜか気分を害してしまうような。だけど、そうかといってお互いに妥協(というか協調)するわけでもなく、それぞれが「それをしたいならすればいいし、悪いとは思わない」みたいに妙に世界観を守ってあげたいふうに言っちゃって、でも、それなのに、わだかまりが何だか残ってしまうような気持ち。
分かってもらえますかねぇ?
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